朝、目が覚めると布団がいつもより重いことに気がついた。しかもなんだかいつもと空気が違うような気もする。
 どうしてかと思いつつもまだ目覚まし時計が鳴らないことをいいことに、二度寝へと移行していく。
 しかし、完全に寝入るより先に誰かがくしゃみをした。明らかに自分以外の人間がいることに慌てて飛び起きるが、すぐにここがどこだったのか思い出す。
 病院だ。俺は三日前に交通事故にもならないような事故で頭をぶつけ入院することになったのだ。
 思い出すといきなり飛び起きた自分が恥ずかしい。カーテンの間仕切りがなかったら醜態を同室の入院患者に晒し、本当にここにいるのが辛くなるところだった。
 飛び起きたせいか眠気が飛んでしまった。病院の起床時間より少し早いが、このままダラダラするのもなんだか退屈だ。病院内を少し散歩しよう。
 四月も後半とはいえ朝方はまだ冷える。パジャマの上にもう一枚羽織ると、音を立てないようにゆっくりとベッドを降りる。カーテンの間仕切りをくぐるとドアまでは一メートルもない。
 部屋を出ると、廊下の寒さが身にしみる。案内板の前まで来てふと、どこへ行こうかと思う。このまま適当に歩くのも悪くないがどうせなら目的地を決めたい。今はそんな気分だ。
 パジャマの上に一枚羽織っただけの状態だから病院の外は論外だ。だからといってこの消毒臭い中にいるのも気が乗らない。
 よし、中庭に行こう。日が当たらず寒いかもしれないが、消毒臭さはここよりいくらかマシだろう。
 そう決めると俺は軽快に階段を下っていった。

    ◇   ◇   ◇

 寝返りを打つと右のわき腹が痛んだ。ぎりぎりっとした痛みが一瞬だけ。
「っん……」
 痛みで声が息とともに漏れ、目を覚ました。ボーっとした頭で天井を見る。……あ、ここって病院でしたね。
 いつもと違う天井の模様を眺めながら頭をクリアにさせていく。
 登校初日になるはずだった日の朝、私は衝撃的な新聞記事を見て道路に飛び出し、車に轢かれた。
 あのときに握っていたはずの新聞記事は、私がここで目を覚ましたときにはもう無く、お母さんに聞いても知らないと言われた。
 あの貴明さんと過ごした時間は夢だったのかもしれない。それを確かめる術は今の私には無いのだから……。
 眠気が覚めると個室のここが少し寂しくなった。
 外に出よう。出来れば高いところがいいな。この時間に屋上が開いているかは分からないけど、とりあえず行ってみよう。
 寒くないようにカーディガンを羽織り、靴下を履く。体を曲げると車にぶつかったところが痛む。痛いんだから仕方ない。そう言い訳をして少しだけ涙をこぼした。
 涙を拭くと洗面所へと行く。こんな顔は看護士さんに見せられない。
 顔を洗うと私はエレベーターホールに出るとエレベーターはちょうどこの階に止まっている様だった。七階のボタンを押してドアが閉まるのを確認すると壁に体を預ける。
 歩くのが辛いわけではないがやっぱり痛いかも……。
 そのまま目を瞑りエレベーターが止まるのを待った。
 七階のエレベーターホールに出るとすぐ隣にある階段へと行く。
 屋上の鍵が開いてなかったら少し億劫だが中庭へと行こう。
 私はそう思いながら屋上への階段を上り始めた。

    ◇   ◇   ◇

 中庭は意外と暖かかった。病院内ほどの暖かさは無いとはいえ、建物にさえぎられ強い風が吹かないのはこの時期には嬉しいことだ。
 しかも南側の建物はサンルームになっているため、中庭にも日の光が届くようだ。
 一介の総合病院とは思えない充実振りだな。そう思いながら近くのベンチへと腰掛ける。
 考えるのは草壁さんと過ごしたあの夜のこと。草壁さんは俺を助けるために時間を越えてやってきたようだ。時間を越えたことを証明するものは何も無く、車に轢かれた痕跡すら残っていない。
 夢だったんじゃないかと思うこともある。だけど、彼女を抱きしめたぬくもりはまだこの胸に残っている。
 俺は絶対に彼女に助けられた。誰も知らなくても俺はそうであることを知っている。
 光の中へと消えていった彼女はどうなってしまったのだろうか?
 そのままよく晴れた空を見上げる。雨が一粒、頬に当たって流れた。

    ◇   ◇   ◇

 屋上へのドアの鍵は開いていた。ドアを開けたとたん、外の空気が階段の踊り場へと流れ込む。
 それに逆らい、私は屋上へと歩み出た。思ったより風は吹いていない。温度差で空気が流れ込んできたからあんなに強く吹いていたのだろう。そう結論付けてフェンスへと歩み寄る。
 病院の屋上はあの学園の屋上のように広いわけではなく、フェンスに囲まれる様に物干し竿が大量に置かれていた。
 ああ、また思い出してしまった。貴明さんと星を見たのは空に近いあの学園の屋上だった。ダメだなぁ、また涙がこぼれてきちゃった。
 そのとき、私の後ろから強い風が吹いた。その風は私の涙を攫うように吹き抜け、どこかへ消えていった。

    ◇   ◇   ◇

 昼になった。
 相変わらず病院は退屈だが今日の検査で良好なら明後日には退院できるらしい。
 売店で買った適当な雑誌も、普段読まないような広告欄まで何度も読み返して暇を潰した。
 早く検査の時間にならないかと待ち焦がれる。
 おっと、先にトイレに行ってしまおう。ベッドから降りるときにスリッパを履くのにももう慣れた。そのまま軽快な足取りで部屋を出た。

 トイレから出ると何気なくエレベーターホールの方へと向かう。もうすぐ検査時間だな、などとあくびをしつつ考えながら歩いていた。
 そのとき、閉まろうとしていたエレベーターの中に、草壁さんの後姿が見えたような気がした。
 呼吸も忘れ、見やるがとっくにエレベーターは閉まりどんどん昇っていってしまう。
 後姿だけで確証なんてない。それでも俺は駆け出した。看護士のお姉さんに注意されるが、ごめんなさいと言いつつ速度は落とさない。
 エレベータの隣にある階段を駆け上がる。どの階で止まるのか分からないことに気付いたが、とりあえず二階上に……。

 結論から言うとあのエレベーターには誰も乗っていなかった。
 検査の後、看護士さんに草壁優季という患者はいるかと聞いてみるがこの棟にはいないらしい。
 だけど、あれが幻だったとは俺は思いたくなかった。

    ◇   ◇   ◇

 お昼前に検査が終わった。午後の回診のときに検査結果を教えてもらえるそうだが、看護士さんが少しだけ教えてくれたことによると、どうやら経過は良好で退院の日は近いらしい。
 検査室のある西棟から私の病室のある東棟までは、北棟か南側の中央回廊を通らなくては戻れないので節々が痛むこの体だと少し億劫だ。
 人の多い一階の中央回廊は避けようと思いエレベーターに乗る。ボタンを押そうとすると一人の看護士さんがこちらにかけてくるのが見えた。どうやら上の階に急いでいるようだったので開のボタンを押して看護士さんが入ってくるのを待つとありがとうと言い飛び込んできた。
「何階ですか?」と聞くと私の降りる階と一緒らしい。
 途中の階で人が乗ってきたときもボタンの前にいた私は同じ対応をする。
 エレベーターを降りると看護士さんに改めてお礼を言われ、私はそのまま手を振り見送った。
 回診まで時間はまだ少しある。雑誌でも読みながら待とう。

    ◇   ◇   ◇

 無事退院の日を迎えることとなった。午前中に春夏さんが迎えに来てくれるとのことだったので、朝食の後すぐに手荷物をまとめる。
 入院費は春夏さんが払ってくれたらしい。さすがに費用が嵩むものだからきちんとお返ししますと言ったのだが遠慮するなと軽く殴られた。
 たぶん、死ぬまで……いや、死んでも春夏さんには頭が上がらない。
「タカくん、用意は出来てる?」
「あ、はい。もともと春夏さんが持ってきてくれたものくらいだったので、これで全部です」
 ボストンバッグを見せると一緒に部屋を出る。手続きは俺のサインで終了らしい。
 受付に行って書類を提出すると退院おめでとうございますと言われ軽く頭を下げた。
 玄関から出ると久しぶりに外の空気を吸った気になり、気持ちが晴れた。
 病院の前景が見える位置まで来ると一度振り返る。ふと、あの日エレベーターで見た草壁さんは幻だったのだろうかと考える。
 それを中断するように春夏さんに呼ばれ、車に乗り込んだ。

    ◇   ◇   ◇

 体の痛みも抜け、ついに退院することが出来るらしい。
 荷物もすでにまとめてあるがお母さんが午後まで抜けられないらしく、それまで待ってとのことだった。
 なんとなくサンルームへと足を向ける。正面玄関の上にあるサンルームは人気が高く、いつも暖かい空気に包まれていた。
 窓際の席の一つが空いている。それになんとなく腰を掛け、外を眺める。
 この時期にしては太陽はぎらぎらとまぶしく、それでも優しく私へと届く。もう桜の季節も終わりらしい。
 外を眺めていると玄関から出る男の人が目に入った。
「あっ……!」
 貴明さんだ。貴明さんはこちらを振り返ったけど光の反射で私には気付いていないようだ。
 でも、それでよかったかもしれない。私はぼろぼろに泣いていて、とても貴明さんには見せられる顔ではない。
 周りの年配の方が心配して背中をさすってくれるがそれでも嬉しさで涙が止まらない。
 ああ、登校日が待ちきれない。



                             おしまい


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