優しい場所


 アリスが飛び級合格をしてから数週間がたったある日のこと。
 前日に降った雨は夜遅くに止み、気持ちのいい朝を迎えていた。夜が明ける少し前に目が覚めたアリスは、隣のベッドで眠っているアテナを起こさないように気をつけながら、ベッドから床へと降り立った。
 軽く体を伸ばしてクローゼットへ向かい昨夜のうちにアイロンをかけておいたオレンジぷらねっとの制服を取り出しクローゼットのドアへと引っ掛けた。
 アリスがパジャマを脱いでいるとアテナのベッドの方からガサゴソと音がした。起こしてしまったかと思い振り返るが、アテナの起きて来る気配は無く、微かな寝息が部屋へと溶け込んでいくだけだった。アリスはほっと息を吐いて制服を着ると、アテナのベッドへと近づき、先ほどの寝返りでずれてしまったのであろう毛布を肩まで引き上げてやる。
 アリスはベッドから離れると部屋のドアをゆっくりと開き、廊下へと出てからアテナをふり返り、いってきますと口の中でつぶやくと、音を立てないようにドアを閉じた。
 アリスが部屋を出て一分ほどたってからアテナはベッドから上半身を起こした。
「やっぱり、少し無理をしてるのかな……」
 アテナの言葉を聴くものは無く虚空へと消えた。


 アリスはオレンジぷらねっとの船着場に着き、つい先日まで使っていた黒いゴンドラを見やった。ふっと思い立ったように黒いゴンドラに寄り膝をつき、軽く一撫でして微笑んだ。
 そして、何事も無かったかのように立ち上がるとオールを手に取って、数週間前から使い始めた白いゴンドラに乗り込み、繋いであったロープを解くと水路へ漕ぎ出した。
 水路の緩やかな流れに乗り、沖までくるとゴンドラを停めた。そのまま目を瞑り大きく息を吸い込むと、潮と春の花の香りを含んだ空気で肺が満たされる。
「でっかい気持ちいいです」
 アリスはそうつぶやき、目をゆっくりと開くと視線の先、空の方から何かが近づいてくるのが見えた。それは数秒でアリスの前までやってきた。
「アリスちゃん、おはようなのだ」
 エアバイクに乗ったウッディーがアリスより少し高い位置に停まり挨拶をしてくる。
「ムッくん、おはようございます。……いつもこんなに早いのですか?」
 アリスは輝く朝日を少し見てからウッディーに尋ねた。
「いつもはもう少し遅いのだ。昨日は実家に帰っていたから早いだけで、仕事はこれからなのだ。アリスちゃんはどうしたのだ?」
 アリスはそれを聞き納得したように頷き、たまたま目が覚めたからと言葉を返した。
 それから他愛もない世間話をして二人は分かれた。
 アリスはその場に残りウッディーを見送ると、もう一度大きく息を吸いゴンドラの舳先を会社に向けた。

    ◇   ◇   ◇

 その日の午後、アリスはアリアカンパニーでお茶をしていた。午後から明日いっぱい休暇をもらったのだ。それに合わせる様に灯里と藍華も休暇をもらい、こうして三人でお茶をしているのである。
 そこへ暁とウッディーが二人揃ってやってきた。
「よう、もみ子」
「暁さん、ウッディーさん、こんにちは」
「こんにちはなのだ」
「二人ともどうしたのよ?」
 藍華が尋ねると暁とウッディーはアリスへと目を向けた。いきなり二人の男性から目を向けられたアリスは少したじろいでしまった。
「な、なんですか」
「ちょっと遅いのだがプリマになったお祝いをしようということになった」
「そうだ、そっちのガチャペンともみ子も来るだろ?」
 ガチャペンと呼ばれた藍華は憤慨したが暁はそれにかまわず話を続けた。
「この時期、お祝いに最適な場所があってな」
「そこに三人を招待するのだ」
 それを聞いて灯里たち三人はどんな場所なのか想像をめぐらせた。
「今日中には帰れなくなるから泊まる準備もするのだ」
「俺様達はアルを呼んでくるからそれまでに準備しておけよ」
 そう言い残して二人はアリアカンパニーを出ていった。


 一時間後、暁とウッディーはアルを連れてアリスたちを迎えにアリアカンパニーへと戻っていた。
 準備が整い出発を待っていた灯里はふと気付き、ウッディーたちに質問をした。
「そういえば、どの辺に行くのですか?」
 それを聞いて暁とウッディーは顔を見合わせ、アルは『説明をしていなかったのか』と言う顔で二人を見た。
「あー……あそこだ」
 暁は少し気まずそうに灯里から視線をそらしつつ人差し指を空へと向けた。
 灯里はその指先を追い空へと目を向けると、そこには浮き島があった。

    ◇   ◇   ◇

「わー私、初めて浮き島に来ました」
 ネオ・ベネツィアと浮き島を繋ぐロープウェーの最終便に乗り込み、三十分ほどで浮き島へと到着した。
 灯里は初めての浮き島にとても浮かれた様子だった。暁たち浮き島出身の三人を筆頭に、たくさんの人から話を聞きはしたが、今まで行く機会が無かったために三年目にして初めての浮き島となったのだ。
「浮かれすぎて迷子になるなよ」
 暁の注意は灯里の耳に入らなかったようだが、灯里の少し後ろを歩いていたアリスと藍華の二人が聞き、左右から灯里の腕掴んで引き戻した。
「まずはウッディーくんの家からだね」
「今日は僕の実家に泊まってもらうのだ」
 ウッディーが少し前に立ち歩いていく。アリスたち三人もそれに続き進む。だが、暁とアルはその場に留まっていた。
「あいつら、たぶん驚くぞ」
 それに対してアルは苦笑で返し、四人を追うように暁と歩き出した。
 案内されたウッディーの実家は牛を飼うほど大きかった。その大きさに驚いているうちに、ウンディーネ三人娘はウッディーの母親に搾り立ての牛乳を振舞われたりもした。
 三人娘の驚きが収まった頃、ウッディーの母親が夕食を作り始める。それを見て三人娘は手伝いを願い出て和気藹々と台所に立っていた。
 その光景を幼馴染三人組で見ているとアルが言った。
「なんだかこういうのもいいね」
「……毒されたか?アルよ」
 暁は驚愕の視線でアルを見つめると、向かい側に座っていたアルの方を鷲掴みにして揺さぶった。
「あかつきん、その辺で止めるのだ」
 ウッディーはすぐにそれを止めさせる。暁の揺さぶりから開放されたアルはメガネのズレを直しつつ訊いた。
「でも、悪い気分じゃないでしょ?」
 暁は灯里たちの様子を見て数秒たった頃、少し顔を赤くした。
「……知らん!」
 アルとウッディーは『そんな顔をして言っても説得力がないよ』と言う顔で見るが、すぐに話題を変えた。
「ウッディーくん、あそこの様子はどうだったの?」
「今朝はいい具合だったのだ」
「それは楽しみだな」
 三人がそんな話をしていると、完成した一品目をダイニングテーブルへと運ぶようにウッディーの母親に呼ばれた。


 にぎやかな夕食を終え一休みしたあと、六人で外に出てきた。アリスのお祝いに見せたいものがあるそうだ。
「それで、何処まで行くの?」
「もう少しですよ」
 藍華が質問するとすぐにアルが答え、楽しみにしていてくださいねと付け加える。
 アルの言葉通り一分足らずで六人は目的の場所に着いた。
 その場には桜が咲き誇っていた。ネオ・ベネツィアではアリスの卒業式の時期に散り始め、今は緑の若葉を見せているが、ここの桜は満開を迎えたばかりだった。
三人娘
「八重桜なのだ」
 普段目にしているソメイヨシノとは開花時期が少しずれており、八重桜のほうが遅い。それゆえネオ・ベネツィアでは時期が終わってしまったはずの桜も、ここでは今が盛りだ。
「でっかいすごいです」
 本日の主役であるアリスもそれを言うのが精一杯になってしまう光景だった。
 頭上に広がる八重桜を月と星がライトアップし、それが神秘さを醸し出して別世界にいる気分にさせてくれる。
「気に入ってもらえたら嬉しいのだ」
 前を歩いていたウッディーが振り返りながら言うと、アリスはとても嬉しそうな笑顔でうなずいた。

    ◇   ◇   ◇

 翌日の午後、アリスが浮き島から帰ってくると部屋にはアテナがいた。
「おかえり、アリスちゃん」
「あ、ただいま戻りました。アテナ先輩、お仕事はどうしたのですか?」
「今から明日の午後まで休暇に入ったの…………それよりもアリスちゃん」
「はい、何ですか?」
 アリスはアテナに手招きされ寄っていくと軽く頭をなでられた。
「元気になったみたいだね」
 アリスは突然頭をなでられたことに驚きながらも、なんのことを言われているか理解した様子でそのままなでられ続けた。
「アテナ先輩、私は大丈夫ですよ」
 そして心優しき先輩へと最高の笑顔を向けた。

おしまい。


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